ところで右側にカテゴリーがありますが、現在お知らせ以外は全部0になってますね。
これは一応、今後ブログを書くならこういうものを書きたいと言うカテゴリなのですが……。
今回は日ごろ書きたいなーと思っていた考察を一つしようと思います。
題を見たら知っている人は知っている、あの作品
『新機動世紀ガンダムX』について適当にベラベラと。
ここに書かれているのは全て個人の主観ですので、回覧の際にはご注意をば。
ついでにネタばれにもご注意を。
以後、考察的なものが続きます。
「かつて、戦争があった……」
この印象的な語りと、地球が崩壊する場面からのXは始まります。
地球も、コロニーも壊滅的な被害を受け、共に深い禍根を残しながら終戦。百億を誇った人類は一億程までに減少。99%の人々が犠牲になったと言うのですから、もはや恐怖とも呆れともつかない感情に支配されます。
当然のことながら、もはや勝者といえる存在も無く両者満身創痍となり、戦争は自然と縮小。
そして、確かに第七次宇宙戦争は終戦を迎えたのですが……。
「それから十五年の月日が流れた……」
第七次宇宙大戦から十五年の月日が流れます。(ちなみにこの十五は初代ガンダムから十五年、第七次宇宙大戦は七作品目と言う一致があります)
十五年後も、未だ世界は完全な姿を取り戻すには程遠く、弱肉強食の無法地帯が今も多く残されています。
そんな中で、一人の少年がある少女を連れ去ってほしいと頼まれ……。
「十五年前の……悪夢だ」
GX-9900、つまるところガンダムXが機動します。
コロニーを打ち落とすべくサテライトキャノンと言う戦略兵器を搭載し、G-bitと言う分身を引き連れた第七次宇宙戦争最強のMSです。この機動シーン、初代と見比べてみるとわかりますが、かなり意識して作られております。GXはこの世界で言う白い悪魔なのでしょう。
直接ではありませんが世界を滅ぼすきっかけとなったMS(※1)。戦争を知る時代にとってこのガンダムは悪夢でしかないのです。
この悪夢をどう使いこなすのか、これが序盤、Xの戦闘でのテーマでした。
サテライトキャノンの威力は凄まじく、辺りが冗談抜きで焦土と化します。この為、サテライトキャノンは機能的な制限より、むしろ精神と言うか禁忌として制限され基本的に使用されません。39話全編を通して9回しかありません。また、実際に武器として使用した回数を数えると更に数は減ります。
切り札であるサテライトキャノンとG-bitは宇宙世紀の集大成の武装と言える代物です。G-bitはMS型のファンネル、サテライトキャノンは小型化したコロニーレーザーと言えばガンダムを知っている人ならこの恐ろしさはわかりますね。これは単純に兵器として強大と言う意味もあるでしょうが、これは今までの戦争の恐ろしさ、つまりは今までのガンダムと言う作品を含んでいるとも考えています。そして、この切り札には基本ニュータイプを必要とします。サテライトキャノンは認証さえすれば無問題ですが。
「お前さん、未来を変えてみる気……あるかい?」
ガンダムXにおいて、ひいてはシリーズにおいて一つの概念、或いは能力として定着していた『ニュータイプ』。Xではこの『ニュータイプ』に一つの結論を打ち出すことが最大のテーマでした。この『ニュータイプ』がかなり曲者でして、この言葉が生まれてから何十年とたった現在でも大した定義付けが出来ない程に曖昧で、超常的な力を持つものと言うイメージが強いのではないでしょうか。発案者の富野監督も作品毎、時代ごとに違う解釈をしており、その苦心が伺えます。
で、今までの宇宙世紀においては、『ニュータイプ』は人類の秘められた可能性であり、『ニュータイプ』こそが未来を切り拓くという構図が暗黙の了解として続いていたのですが、Xではその見方を見直すことが一つのテーマでした。
そもそも『ニュータイプ』って何? と言われると前述の通り発案者も苦悩しているので極めてあやふやな物です。一応、今までのガンダムシリーズにもニュータイプでも幾らか作中で言及していますが……。ニュータイプは宇宙に出て宇宙で生まれ育った人類が新たな感性を手に入れた、ひいては適応した存在だ、とはジオンの創設者、ジオン・ズム・ダイクン弁。でも初代から地球育ちと思わしきキャラクターはわらわらと。まぁ、これは政治的思想も絡むのでどこか排他的です。後はZZのキャッチコピーとして「子供はみんなニュータイプ」。個人的には一番納得がいくニュータイプです。
んで、このXでは一応ニュータイプである事を定義出来る設定が存在します。それはフラッシュシステムに対応すること。これがニュータイプの条件です。それ以外は全てまがい物である『カテゴリーF』として処理されます。
戦力的にもニュータイプがいれば強力なサイコミュ的な兵器も使用できますし、自然と『ニュータイプ』ありきの戦略、思想になるのも残念ですが頷けるんですよね。いつからかこれは『ニュータイプ』こそが未来そのものであると言う先入観を植え付けてしまいます。作中の人物は勿論、おそらく今までの作品を見ていた視聴者もそうだったでしょう。
しかしこれは同時に『ニュータイプ』以外は未来を作れないと言う排他的な思想に傾きかねない。じゃあ新しい未来を作るべく奮闘してきた『ニュータイプ』以外(本当は面倒くさいのでオールドタイプって書きたいのですがそれを書くと違う意味になりかねないのでこの言い方にさせてもらいました)の存在は否定されてしまうのか? という事から生まれたのがフロスト兄弟です。彼ら兄弟は『ニュータイプ』を憎み、ひいては『ニュータイプ』を信じる人々を憎みます。何故なら『カテゴリーF』である彼らは『ニュータイプ主義』がいる限り未来を作れないのですから。
そして『ニュータイプ』に囚われた旧世代の人間達……。連邦のブラッドマンと革命軍のザイデルは自分にとって都合の良い『ニュータイプ』を定義し、その根底では『ニュータイプ』を崇拝しています。彼らは利害と言う形で対立しているだけで根は同じ『ニュータイプ主義者』です。この二人がいる限り自分達は存在できないと考えたフロスト兄弟によって消し炭にされます。
そして『ニュータイプの庇護者』である立場をとるジャミル・ニート。彼が『ニュータイプ』に拘るのは自分自身十五年前『ニュータイプ』だった事に他なりません。彼自身は『ニュータイプ』ではなくなってしまいましたが、元ニュータイプとして『ニュータイプ』を信じるのは不自然な話ではありません。むしろ一番純粋に『ニュータイプ』を信じていたでしょう。ですが、『ニュータイプ』に拘っていたのは間違いの無いことで、そのせいで色眼鏡をかけて世界を見ていたことをD.O.M.E.によって指摘されます。
そしてティファ……彼女は数ある『ニュータイプ』でも特異な存在な気がします。無論『ニュータイプ』であることは間違いの無いことなのですが。劇中でのニュータイプが殆どいない事もあって判断に苦しむのですが、恐らく彼女は『ニュータイプ』の中でも特殊な、未来とか思想的なそういう話は抜きにして新種の『ニュータイプ』だったのだろう、と思っています。
彼女自身は自分が『ニュータイプ』であることに何の誇りも何の思想もありません。ある意味最も純粋な『ニュータイプ』です。ガロードとの『約束』のシーンのナレーションにおいて「この時、私は初めて、自分の力をもっと欲しいと思いました」と言っていることから『ニュータイプ』について意識した事は殆ど無く、「出来ることなら普通の人間として暮らしたい」と言う発言から『ニュータイプ』でありたいどころか、普通の人間として生きたいと言う事がわかります。
そしてこの題の締め、ガロード・ラン。
彼はニュータイプではありません。思想的な話は抜きます。ニュータイプではないただの人間です(書いていて思いますが、ニュータイプでないことが普通の人間だ、というのも可笑しな話です。彼らも結局ただの人間でしかないのに)。メタフィクション的にも、ストーリー的にも最も重要な立ち位置です。
彼はティファが好きです。皆さんご存知ですよね。でも彼は『ニュータイプ自体』は別にどうとも思ってません。カリスへの理解などから、『ニュータイプ』への一定の理解があるとは考えて問題なさそうですが、『ニュータイプ』云々かんぬんを抜きの発想で生きているので、『ニュータイプ思想』の外側で生きている人物です。彼は無論、単純にティファが好きなんですが『ニュータイプ』がどうこうは考えていません。ティファの言う「出来ることなら普通の人間として暮らしたい」を体現できる人物ですね。
作中最も、透き通った目線で会話の出来る人物です。ガロードは『ニュータイプ』というしがらみがないので、Xの世界で生きてこられたと言っても過言ではない気がします。実は彼は本来フロスト兄弟を正当に評価できる立場にいるのですが、当のフロスト兄弟が『ニュータイプ』に一番拘泥しているためそういった機会はありませんでした。
そして最後の戦い……『ニュータイプ主義者』であるザイデルとブラッドマンが死んだので、
『ニュータイプ主義』は事実上消えました(ジャミルはD.O.M.E.に指摘され考えを改めています)残りは『反ニュータイプ主義』のフロスト兄弟のみ。さて、彼らは何故ガロードに倒される必要があったのでしょう? え? ラスボスだから? あ、いや間違いじゃないんですがそういう話ではないんです。
D.O.M.E.の言葉により、『ニュータイプ』と言う曖昧な言葉を捨てれば、そのしがらみの中で苦しむことも無くなる(意訳)と言う言葉が事前に話されています。ガロードは例によって、『ニュータイプ』の開放とか、そういう事に興味は無く、ただフロスト兄弟を倒すべく戦っていますけども。『ニュータイプ』と言う言葉を捨てるためには、例えそれを憎んでいようが最も『ニュータイプ』に拘泥している彼らを倒さなくては『ニュータイプ』は消えないのです。それも、これは『ニュータイプ』ではないガロードがやらなくてはいけません。わかっていらっしゃるとは思いますが、ガロードの行いは『ニュータイプ』の全否定ではなく『人間として肯定』です。未来を作るのは『ニュータイプ』とは限らないと証明するために。
『ニュータイプ主義』に支配された未来をガロードは壊すことに成功したのです。いやー、題の台詞を消化するまで長かった……。
「古い時代は、これで終わりだ」
そしてエピローグにて、世界は『ニュータイプ』を捨てました。全員がただの人間として生きているのです。赤い二連星が、自分達は『ニュータイプ』だ、と言うと民衆に笑われます。これは
『ニュータイプ』が思想とは別の存在になったことの現れでしょうか。何にしろ、『ニュータイプ』こそが未来とは言われることはもうないでしょう。何たってただの人間ですからね。
ガロード達を見守るフロスト兄弟もどこか穏やかに見えます。恐らく、彼らにとっても『ニュータイプ』を捨てたこの世界は自分を正当に評価(色々やってるけどまぁ気にしない)してくれるので住みよい世界になったことでしょう。
「月はいつもそこにある」
けれども、不思議な能力を使う人間がいなくなったわけではありません。『ニュータイプ』もまた同じく。けれど、それはただの記号にしか過ぎないのです。未来は誰の手にも掴む権利があります。
けれど、それは、見ているだけでは手に入りませんし、何かをもっているから勝手に扉が開くほど単純な話ではないのです。自分の手で、自分の目で周りを見て、手を伸ばして初めて未来を作ることが出来るのです。
「生き延びた先に、何があるのか?」
ここからはメタ視点です。
でもぶっちゃけ面倒くさいので言いたいことを纏めると『ニュータイプ』を『ガンダムと言う作品』に置き換えてみてください。大体は意味になるはず。こうするとガンダムXがどういう作品なのかは見えてきますね。
でもこのギミック私が考えたわけじゃなくて、Xの高松監督の考えたギミックなんです。本編でも同じ事が言えますので是非。
1stから十五年目の作品のX。X自体ある意味カトックの言う『十五年目の亡霊』なのかも知れません。1stと言う作品が終わってから十五年、ガンダムは形を変えながらもどこかガンダムであることを強いられてきました。そんな中現れたG、W、Xの作品。原作者富野監督が直々に「ガンダムをぶっ壊してくれ」と言われた今川監督と池田監督と高松監督(池田監督は途中で降板してますが……)。当時の苦心が伺えますね。
ガンダムを変える為に、ガンダムを定義して破壊した、と言うのがアナザー三部作のやり方だったのかなぁ、と。そして、次のガンダムが新しい作品になることを信じて……。
そしてこの作品の後、「∀ガンダム」が製作。原作者富野監督が直々に『ガンダム』の終着点を生み、『ガンダム』をぶっ壊します。Xファンの私としては運命的なものを感じましたが、『ガンダム破壊』を目指していた原作者富野監督からしてみれば然るべきことだったのかもしれません。
終わりは始まり。生き延びた先は未だ、真っ白のまま。でもそれがガンダムXの求めたものだった。これから、ガンダムを新しく書いてゆこうと言う監督達の意気込みが伝わります。
でもこれ2015年に書いてるから今更過ぎると言うかなんと言うか……あ、Gレコ絶賛放送中です(ステマ
(※1)次のガンダムは直接ぶっ壊しました(笑)
以上初めての考察になります。本当はもっと色々なこと書きたかったのですが時間が無かったもので……。また機会がありましたらその時にでも。
話は変わりますが今年発売のDXのMGが待ち遠しいです。GXのMGがかなり精度がよかっただけにかなりの期待が。ディバイダーいつかな?
ともかくこれで考察は終わりです。こんな拙い考察にお付き合いしてくださりありがとうございました!